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- 萬翠楼福住の歴史
明治初期建造の旧館「萬翠樓」と「金泉樓」は伝統的な数奇屋風の日本建築と西洋の技法や意匠を融合した擬洋風建築です。
「神奈川の建築100選」に選ばれ、平成十四年には現役旅館として初めて国の重要文化財建造物に指定されました。
平成14年12月28日に国内の貴重な文化財として、
登録認定されました。
当館の創業は寛永2年(1625年)です。箱根かごかき唄に「晩の泊まりは箱根か三島ただし湯本の福住か」とうたわれ、
江戸時代から旅人や湯治客に親しまれてまいりました。
明治12年(1879年)、十代目主人の福住正兄(まさえ)は西洋建築と数寄屋造りが融合する、意匠を凝らした建物を完成させます。
その建物(現在の旧館)は現存する希少な擬洋風建築として、国の登録有形文化財となり、神奈川県からは“かながわの建築物100選”に選ばれました。
また、当館は昭憲皇太后、有栖川宮熾仁親王、木戸孝充、井上馨、伊藤博文、福沢諭吉、市村羽左衛門、尾上菊五郎、河竹黙阿弥といった
多くの文人墨客をお迎えしてまいりました。
萬翠樓の名は明治9年(1876年)、木戸孝充公がご逗留の際にいただいたものです。
天井画で知られる「萬翠楼15号室」。
富士山や花など48枚が描かれています。当館の蔵から出てきた布地で、漢字の「福住」を単純化した模様は、同時に“住”の字がほかの言葉にも読めます。正確な記録は残っていませんが、ちょっとした洒落を効かせているところから、十代目主人、正兄の時代のものかもしれません。現在は旧館の廊下に飾ってあります。
明治9年(1876年)に竣工した旧館前楼は、和と洋のスタイルが融合する、明治期においてはたいへんモダンな建物でした。多くの文人墨客にも愛され、写真の部屋は森鴎外が明治43年(1910年)に発表した小説「青年」の舞台になったと推測できます。また、昭和30年代には、夏ともなると窓の外の屋根に床を張り、ひさしを掛け、お客様に夕食を露天でとっていただくこともあったと伝えられています。
旧館が建てられた明治初期、小田原の建て具職人は全国どこでも通用する最高水準の技術を誇っていました。窓が全開する上に、好きな位置でとめることのできる造りには、高度な職人芸が生きています。
階段に細工をして、階段の明かりが部屋をほどよく照らすようにしたアイディアがユニークです。なお、螺旋状階段のステップ部は大きな一枚板を分割したものと思われます。
自然の造型を生かした意匠。 明治12年(1879年)に竣工した旧館奥楼は、木の幹をほとんど削らずに使った柱に合わせて戸にカーブをつけたり、切り株を欄間に用いたりと、自然の造型を生かした意匠が特徴です。3年早く完成していた旧館前楼において、和洋折衷の大胆かつ華やかな意匠をふんだんに取り入れ、その成果に満足した正兄が、奥楼では自然との協調を求めたのではないでしょうか。若さがみなぎる前楼と円熟の奥楼は、その意味で対照的です。
物入れがコンセントを隠しています。 旧館のいくつかの部屋には、コンセントを隠すようにして、三角コーナーの物入れがあります。推測ですが、電気がひかれたばかりのころ、コンセントが見えては無粋だからと、十一代目主人の政吉が据え付けたのではないでしょうか。
館の障子格子はバリエーション豊かで、部屋ごとに模様が異なるほど。なかには見る位置によって模様が変わって見えるだまし絵のような格子もあり、職人芸を感じます。